3.17.2013

教会の妥協の時代

第二テモテ4:1-4 「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とを裁かれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。御言葉をのべ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」

    2013年はその通りの時代になっているように思います。日本のキリスト教会は次々と妥協しています。牧師は信者を喜ばすために、そして、未信者を喜ばすために、次々と妥協しています。
    牧師ははっきりと聖書の真理を語るべきです。わたしの仕事は人を喜ばす仕事ではありません。人に合わせる立場ではない。神様に従う義務があります。誤りなく、謝りなく、はっきりと語るべきです。これをしなくなると、教会として集まる意味がなくなります。多くの教会はただの人の集まりです。愛がある場所かもしれませんが、その愛はどんな愛でしょうか? Phileoの愛です。人間の愛です。完璧な愛ではない。教会は本当の愛を理解するべきです。
    ダラス市の第一バプテスト教会の牧師が先々週に、このように語りました。「今のアメリカでは、妥協している人が多くいます。この世の考えに合わせています。しかし、勇敢な男性はそういうことをしない。時が良くても、悪くても、神様の真理を謝りなく語るのです。たとえ、不便でも、人気ないメッセージでも、そうします。『先生、私は違うメッセージを語るために、神様に召されました。神様の愛を多くの人に語りたいです。罪と裁きのことを語るためには召されていない。』という男性もいます。真心より、そして、熱心に神の愛を語っている方です。熱心に間違ったことをしています。なぜなら、人間は神様の愛を理解できる前に、神様の裁きを理解しなければならない。人間は罪びとであり、神の愛を受け入れるには、ふさわしくないのです。しかし、神様の恵みにより、私たちは神の愛を受け入れるのです。神の正義と神の愛、両方を理解する必要があります。」
    アガペキリスト教会ははっきりと神様の正義と神様の愛の両方を語り続けます。妥協は絶対にしません。たとえ、最後の教会になっても!

3.14.2013

わがままな子を育つ自己中心の親

許してください。アメリカンスタイルではっきり言います!今の多くの親は自己中心だからこそ、子供がわがままです! あなたも自分のことばっかり考えているのではないか? 今月の英会話のクラスで学んでいる言葉は「おもいやり」です。 おもいやりのない人がたくさんいる時代に生きていることはつらいです!英会話教室だけの問題ではなく、社会の問題ですね。

英会話で非常に困っていることがあります。子供の英語の授業中の親のおしゃべりがうるさいです! 何年間もやさしく、お願いしてきたつもりですが、もう限界です。 なぜ、お子さんを習い事に連れていき、お金を払いながら、教室の後ろでおしゃべりをするのですか?誰か、説明してくれないか?まったく、理解できません。大変失礼です。月謝が安すぎるから、まじめにできないのですか?そうであれば、解決は簡単ですね。月謝を3倍くらい値上げしましょう! 

いつも言っていることをもう一度言います! お子さんがあなたの模範を見ています!

3.10.2013

東北震災から2年。

2年は早いですね。2011年3月11日の震災で多くの方々がなくなりました。日本各地で募金活動をしたり、東北にボランティアを送ったり、日本全国が一つとなったような気がします。人間はテロや震災が起きると、たがいに助け合ったりしますね。なぜ震災が起こらないと、そうならないのでしょうか?震災がしばらくの時がたつと、元の自分に戻るのですね。 その元の自分とは何でしょうか? もしかすると、自己中心ではないでしょうか? 人間は基本的に自己中心的な存在です。 月曜はニュースや新聞など、震災の記念日ですので、すこしでも、ほかの人のことを考えるでしょうが、その後はいかがですか? 思いやり深い人になりましょう。 たまにではなく、いつも! 聖書にかいてあります。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれたものと思いなさい。」

3.03.2013

3月のテーマ発表:思いやり深い人になろう!

国語辞典には「おもいやり」の定義はこのように書いてありました。「他の人のことを考える気持ち」。 それでけでは、聖書が教えてる思いやりまだ届かない定義だと思います。 他の人の事を考えると考えるほど、嫌な気持ちになる場合があるからです。 例えば、私たちを迫害する人であれば。しかし、聖書の教えでは、クリスチャンは自分の敵でも愛さなければなりません。 アメリカの新聞にこのような記事がありました。
    「ある女性が自分の夫がひどい人で、彼を非常に憎んでいた。その怒りがあまりにも大きくて、体が病気となりました。あるカウンセラーがアドバイスをしました。『彼が変わってほしいという気持ちが本当であれば、次のことをやりなさい。 日々、彼に優しい言葉で話しかけなさい。彼の良い所を褒めなさい。優しい思いやりがある奥さんになりなさい。 彼があなたに愛されていると気付いたところで、急に180度に態度をかえて、離婚届けを出しなさい。そうすれば、彼に大きい傷を与えて、彼に復習ができるでしょう。』  彼女はその案に非常に喜んで、ありがとうと言って、自宅に帰りました。そして、すぐ実行しました。 しかし、(最初は形だけだったが)彼を犠牲的に愛し始めたら、自分の気持ちが変わりました。そして、彼の行動が変わりました。 何カ月後にカウンセラーとあった時に、聞かれました。「彼と離婚をするんですか?」「とんでもありません。私たちの夫婦関係は最高です!」 
    聖書が教えている思いやりは、相手がそれを受けるにふさわしいかどうかは、関係ありません。 私たちがイエス様の愛を受けるにはふさわしくありません。けれどみ、イエスキリストは私たちの身代わりとなって、罪の代価を支払ったのです。 本当の思いやりは、相手の言動に影響されないはずです。キリストが私たちを愛して下さったから、私たちは他の人を愛するべきです。 キリストの模範から見習いましょう。

「真生留」

キラキラネームが多くて漢字が読めないこの時代ですから、私も「自分の名前の漢字を勝手に選ぼう」と数年前に思いました。最初はラインのIDに使っていただけですが、最近は仕事関係や名刺などでも使うようになりました。その漢字を選んだ理由を説明します。 真 (ま)  生 (いけ)  留 (る...